21歳で学生結婚。一男一女を授かりました。
子どもが生まれる前から夫のモラハラを越えた言葉によるDVに悩み続けながらも、どうやっても解決の糸口を見つけられず、親や子どもたちに心配をかけたくない一心で取り繕う自分と、夫を恨む醜い自分との間で苦しみながら、気がつけば30年という月日が流れていました。
このことはカウンセラーになろうと決めるまで、誰にも打ち明けたことはありません。
少し子どもの頃の話をさせてください。
瀬戸内にあるのどかな田舎で育った私は、無口で、どこへ行っても大人しくて目立たない子どもでした。たとえ親戚でも大人が苦手で、自分に意識を向けられると逃げるように親の後ろに隠れていました。
そんな性格は成長してもあまり変わらず、周りから嫌われないように、その時々で仲良くなった子に合わせて自分を変えたりして、自分の表現の仕方を知らないまま大人になりました。
良くも悪くも器用だったので、わりと何でもそつなくこなし、大きな問題を起こすこともなければ、がむしゃらに努力することも壁にぶち当たることも経験せず、大学進学を機に親元を離れて意気揚々と新生活を始めました。
ところが・・・そこで知った世界はカルチャーショックというよりも、自信を喪失するものになってしまいました。
田舎では「優等生キャラ」を演じていた気になっていましたが、大学は「本物の優等生」の集まり。自分がどれだけ人より劣っているか、世間知らずで薄っぺらい人間だったかを思い知らされることになったのです。
この辺りから私のこじらせ人生が始まったように思います。いえ、今思うと、子どもの頃からこじらせていたものが、夫と出会い、最初の結び目を間違えたことによって更にこじれて、もつれて、もう自分ではほどけなくなっていたのです。
これが、18歳のときの私です。
ここから30年以上、自分では解決するすべを知らないのに誰にも相談せずひた隠しにし、一人で抱えて苦しんできました。
そしてとうとう、もつれた糸がプツンと音を立てて切れてしまい、私の心と体は完全に行き場を失くしてしまったのです。うつ状態でした。人生で初めて「もう十分生きた、しんどい、消えたい」「夫が死ねば自分は死ななくてすむのにな」と思ってしまいました。
ただただ怖かった・・・。その時の自分の思考も、自分がいなくなった後の世界を想像することも、このままの精神状態が続くことも、すべて恐怖でしかありませんでした。
それからは自分を見つめ直すことを最優先にし、封じ込めていた苦しかった感情を癒しながら自分と向き合い、夫とも向き合い、本当はどうしたかったのか、この先どうなりたいのかをちゃんと考えるようになりました。
そうすることでわかった大切なことは、起きてしまった問題を一人で何とかしようと抱え込まず、自分を責めることなく相手のせいにもしないこと。そして、自分の感情を否定せずに認めてあげること。そうすることで例え心が乱れても、安心安全な心の置き場がわかり、迷うことなくそこへ自分を戻すことができるようになります。
私自身の心のSOSが、コミュニケーション法や心理学、脳科学などを学ぶきっかけとなり、長い間どうしても理解しあえなかった夫との心のズレからくる違和感が、ふわっと晴れていくような感覚を覚えました。
私には「繊細さん」といわれるHSPの気質があり、そのせいでアダルトチルドレンの特性が少なからず影響していたことや、夫にも同じように、過酷な家庭環境で育ったことによる心の歪みがあり、アスペルガー症候群の特性ともいえる共感性の乏しさ、強いこだわりや攻撃性があることなどから対人関係の問題を抱えていることがわかりました。
このことから私自身がまさにカサンドラ症候群の状態であり、共依存に陥っていることがわかったのです。ようやく最後のパズルのピースを見つけた気がしました。うれしくも、少しせつない最後のピースとなりました。
せつない気持ちの出どころは、このピースを見つけるまでに、あまりにも長い年月を費やしてしまったことに他ならないと思います。これといった原因はないのに、無駄に言い争っては激しく傷つけあい、疲れ果て、自分を責め、そしてまた相手を警戒して些細なことで言い争う・・・こんな負のスパイラルからもっと早く抜け出すすべを知っていたならどんなに楽だったことか。笑顔を失くすくらいの殺伐とした日々を過ごすこともなかったのではないか、そんな想いを巡らせたりもします。
でも、私と夫は「憎しみ合っていたわけではなかったんだ」と・・・そのことがわかっただけで、今となってはこれまで夫と繰り広げたバトルの数々も懐かしく感じています。
夫婦やパートナー間、あらゆる人間関係で大切なことは、相手と適度な距離感を保ち、心地よい関係でいられることが円満の秘訣であると私は考えます。現在はカウンセラーとして、カサンドラ症候群、共依存やモラハラ、アダルトチルドレンなどでお悩みの方を対象とし、少しでも早く笑顔を取り戻していただけるよう、わかりやすく具体的な方法を用いてカウンセリングを行っています。
カサンドラ症候群、共依存に陥っていたところから、どのようにして這い上がり克服したかを知っていただきたい。そして、カウンセラーとしての私がどういう過去を歩んできたか、包み隠さずお伝えすることで、その中に解決策が見いだせる方もいらっしゃるのではないか、という思いから、ここから後はさらに詳しく私の体験したことについて書いていきます。
ご興味がある方は、どうぞ、もう少しお付き合いくださいね。
甘えることを知らずに育った、ひとりぼっちの少女
私が生まれたところは広島県の海がほど近い小さな町。漁業が盛んで、いつも新鮮なお魚が食卓に並んでいました。
近所は海産物に関わることを仕事にしている家庭が多い中、うちは会社員の父と自宅で塾を営んでいる母というその近辺ではお堅い家庭だったように思います。
動物や自然の生き物が大好きで、友だちといえば飼っていた犬や猫、亀、そして外のカエルとかヤモリ。
一つ年上の兄がいて、小さい頃はいつも兄にくっついて虫や爬虫類を探してまわるのが楽しくて仕方がありませんでした。
5歳になる年に保育園に通うようになると兄と離れたことがなかった私は友だちを作ることができず、いつもポツンとひとりぼっち。
でもそれを寂しいと思うことはなく、ひとりでアリの巣を突っついている方が楽しいと思うような子でした。
先生が輪に入れようと話しかけてきてもほとんど無視してひとり遊びに没頭していました。
私の中には、どんなに優しい先生でも心を開いて甘えた記憶がありません。
そう、大人が苦手、だったのです。
穏やかだった父、アルコール依存症に蝕まれる
小さい頃の家庭内はいたって穏やかで平和でした。
週末の夜はみんなが集まり、こたつの天板をひっくり返してトランプや百人一首、花札で遊んでいました。よくドライブにも出かけました。
父にとっては私と兄は遅めにできた子だったので、それはもう大切に愛情たっぷりに可愛がってくれました。
でもこの頃からもう、父はお酒から離れることができなくなっていたのです。
兄も私も成長し一家団らんの時間が減ってくると、父のお酒の量が増え様子がおかしくなってきました。
お酒を取り上げても探して隠れて飲む。
買わなければ家の貯金箱からお金を持ち出して外でこっそり飲む。
アルコール依存症と診断されました。
そんな父を疎ましく思う年頃になると完全に避けるようになり、父は家の中で孤立してしまいました。
寂しさからますますお酒が増えてしまった父の晩年は、アルコールにより脳が委縮し、人格が変わってしまって認知症のような症状が出現。
体も衰弱し、介護が必要な状態になりました。
母は明るくふるまっていましたが、かなりダメージを受けていることは見ていてわかりました。
こんな両親を実家に残したまま、私は進学のため家を出ることになったのです。
生きづらさを自覚、原因はHSPだった
別人のようになってしまった父と淡々と塾の運営を続ける母。
ふたりを残して家を出るのは後ろ髪を引かれる思いもありました。
「冷たい娘でごめんね・・・」
でも正直なところ、
「これで解放される」と内心では思っていました。
ごく最近になって知ったことですが、私自身が HSC“Highly Sensitive Child”と言われる繊細で過敏な子どもだったようで、
物心ついた頃から大人の事情というか、大人のオモテの顔とウラの顔を敏感に感じとってしまって、その空気感が嫌いで耐えられませんでした。
親であっても同じことでした。
大人が苦手だった理由がはっきりとわかり、自分なりに納得できました。
自信をなくし居場所も失った、失意の中の大学生活
家庭内のしがらみから解放され新たな一歩を踏み出したはずでしたが、今度はバブルの余韻が残る女子大特有の雰囲気になじめず打ちのめされました。
周りは、服装も当時の流行のものでブランド物を身に着けたキラキラした女の子ばかり。
帰国子女や都会的な空気をまとった爽やかな人たちであふれていました。
今まではカメレオンのように周りに合わせてなんとかやり過ごしてきましたが、父の病気のことで仕送りは期待できず、お金がありません。
「大学になじむ = 派手に着飾る」
と完全に勘違いし、こじらせが加速。
「思ってたんと違う」
親から解放されるはずの場所で自信をなくし、居場所を見失ってしまったのです。
年上の夫に惹かれ、同棲生活が始まる
8つ年上の夫に出会ったのは大学に入って間もない頃でした。
高校時代まで同級生かひとつ上の先輩としか付き合ったことがなかった私は大人の男性の魅力に初めて触れました。
同棲するようになり、大学の友だちとは授業以外は付き合いません。
夫のいる世界だけが私の住む世界。
だんだんと自分の居場所になっていきました。
大学には車で送り迎えをしてくれたり、食べたことのないものをごちそうしてくれたり。
それだけが好きになった理由ではなくて、夫は出会った頃から表現がストレートで気を遣わなくてすむ大人だったのです。
後になって気づいたことですが、夫の場合のこの「表現がストレート」という部分は「オモテの顔とウラの顔がはっきりとわかれている」ということで、
ウラの顔が出てきた時もまた、表現がストレートすぎて私を苦しめるものになっていきます。
このことを当時の無知だった私は
「オモテウラのない人」と逆の意味で捉えていたのです。
嬉し恥ずかし(のはず…)な同棲生活は波乱の幕開けとなりました。
悲しい生い立ち・・・気づけなかった共依存の落とし穴
夫が育った家庭は、完全に機能不全なものでした。
職人の父親と虚弱な母親の間に長男として生まれ、親の愛を知らずに育った人でした。
父親からは虐待を受け、毎日のように殴る蹴るの暴力。
同じように母親も暴力を受けていたそうです。
こんな話を聞きました。
夫が幼稚園の頃、園に上履きを忘れて帰った時のこと。
父親に怒られると怯えた夫は、夕方、幼稚園まで取りに行きました。
両親はお店で忙しそうだったので一人黙って幼稚園に向かったそうです。
幼稚園の先生に連れられて家に帰り、そのことが父親にばれると首根っこをつかまれていきなり川に投げ込まれたそうです。
これ、真冬の話だそうです。
見かねた近所の人が助け出してくれなければ溺れるか凍死していたと・・・
「その時お母さんは?」と私がたずねると、
「知らん、そこにおらんかった」と・・・
私は思わず夫を抱きしめ、自分が号泣してしまいました。
その頃から、「この人は私が守らなくては」という母性のような、責任感のようなものを感じるようになりました。
まさに共依存の始まりです。
精神的に依存しあい、自分の問題と夫の問題の境目が全くわからなくなっていきました。
そして、そのことを問題視すらしていませんでした。
すでに理由もわからないようなケンカを繰り返していましたが、「私たちは強く結ばれている」という方向に思考が引っ張られ、なぜかそのことに安心感を覚えてしまうのでした。
喘息と発疹から始まった、原因不明の病気で大学を休学
大学3回生の時、引っ越しをすることになりました。
新築で大学から近い物件を探していたのです。
内見に行った時のこと、部屋に入った途端、私には刺激臭と目に刺さるように沁みる嫌な空気が感じられたのですが、夫は何も感じないとのこと。
不動産屋さんも「新築ですからね、換気すればどうもないですよ」と言うのでその物件に決め、引っ越しました。
しばらくして・・・
私はその部屋に帰ると呼吸が乱れて咳が止まらなくなり、なんと全身が真っ赤にただれ始め、普通の生活ができなくなってしまったのです。
大学は後期に入ったところでしたが、休学を余儀なくされました。
通年単位の学部だったため、その年のすべての単位を落としました。
全身の皮膚がはがれ落ちた、重度のシックハウス症候群
やっと判明した病名は、化学物質過敏症(シックハウス症候群)。
しかも、重度の症状であることがわかりました。
当時はまだ、その病気のことはほとんど知られていませんでした。
皮膚がただれ、体のいたるところから血が滲み、痛みと痒み、見た目の変化が受け入れられず絶望しました。
全身が火傷にあったようでした。
何度も何度も、死にたいと思いました。
それでも夫は私を見捨てることなく、つきっきりで世話をしてくれ、良いと言われるものは懸命に私のために取り入れてくれました。
夫も必死で治そうとしてくれていると感じることができ、夫のために私も生きよう、乗り越えようと思えたのでした。
半年ほどで皮膚の剥離が落ち着き、ようやく光が見えてきました。
4回生になるところで大学にも復学し、残りの1年で2年分の単位を必死でとりました。
4年間の在籍は必要だったため、半年遅れでしたが卒業することができました。
「お前は何様や? 恥を知れ!!」
この言葉、どういうシチュエーションで言われたと思いますか?
実はこれ、体調が最悪な状態で寝込んでいる私に対して結婚式前夜にぶつけられた言葉です。
病気を克服した私たちは「(こじらせた)絆」がさらに(もつれただけの)強固なものになった気になり、私がまだ学生でしたが結婚することにしました。
その頃、実家の父は起き上がることもできない状態になっており、お別れが近いと感じていた私は「早く孫の顔を見せてあげたい」という思いもありました。
当時の流行りですね。
ふたりで海外で式だけ挙げようということになり、なけなしのお金をはたいてハワイへ行きました。
時差ボケが抜けきらない式の前日のクルーズツアーでの出来事。
体調が悪いのと船酔いとが重なって本当にもう最悪な状態でした。
一緒に参加したご婦人が「大丈夫?」と声をかけてくれましたが、人と話すのもしんどく、「ありがとう…」と、やっとの思いで言ったのです。
そして、その晩の夫のセリフがこれです。
「『ありがとう』だと?おまえは年上の人に『ございます』が言われへんのか!?」
「お前は何様や!!恥を知れ!!!」
言われる意味が分からず混乱しながらも初めは反発して応戦していましたが、もうしんどくて・・・
翌日は結婚式だし、ここは謝ってとりあえずこの場を収めようとしましたが、夫の怒りは静まることはなく、さらに罵倒され続けました。
普通なら結婚式どころではない状態です。
いつものことですが、激しいバトルがあっても翌日には何事もなかったかのように接してくる夫。
この時も、前日に自分が何を言ったのか反省するでもなく、ただ予定通りに結婚式を挙げて帰国したのでした。
その場の空気を最悪にする夫、病気を疑い始める私
この頃はまだ「大人の発達障害」という言葉は一般的ではありませんでした。
「なんかおかしい、普通じゃない」
そう思いながらも、夫の身勝手な言動や思いやりのなさ、異常なほどの凶暴性・・・
不安と恐怖にも慣れてしまっている自分がいました。
「この人は“人を思いやる”という機能を持たないまま生まれてきている」
実感としてはっきりと言葉にできたのはたったこれだけでした。
先にも触れましたが、夫は幼少期から母親に暴力を振るう父親に怯え、自分もずっと虐待に耐えていました。
その恐怖と絶望は察するに余りあります。
その育った環境のせいか、先天的なものが要因か、夫は異様なまでに他人に威圧的でした。
すべての人が敵に見えているようで、とにかく平気で人を不快にさせていました。
宅配の人であろうとコールセンターの人であろうと店の店員であろうと悪態をつき、それを見て私は不安で胸が締め付けられ、その後、夫を責めてしまう。
そんな悪循環から、この時もうすでにケンカが絶えない状態だったのです。
夫のことを「病気かもしれない」と思い始めるようになっていました。
なかったことにされたまま、消し去った結婚記念日
はれて夫婦となり、「同棲」という背徳感から解放されました。
そして、長男を妊娠中に1回目の結婚記念日を迎えました。
どこでどう過ごすか、誰でもウキウキしますよね。
でも、夫は違いました。
楽しそうに計画を立てる私を見て不機嫌になってくるのです。
そして出てきた言葉が・・・
「は? 今日は俺の誕生日やぞ」
もちろん、忘れていたわけではありません。
私の大学の授業や夫の仕事の都合でたまたま結婚の時期が夫の誕生日と近かったため、どうせなら同じ日に、と重なっていたのです。
夫は、結婚記念日よりも自分の誕生日の方が大事・・・
別にそのことを悪いとは思いません。
けど、若かった私は激しく傷つきました。
この時から、結婚記念日というものを私の中から消し去りました。
どうしても、
何をやっても、
心が通いませんでした。
目の前のことが普通なのか異常なのか、私にはわからなくなっていました。
誰にも言えず社会に出ても孤立、心が悲鳴をあげ始める
長男が誕生し、夫はとても育児に協力的で優しくなりました。
2年後には長女も生まれ、子どもたちにとっては本当に良いお父さんになってくれました。
自分の育った環境のようにはしたくないと、懸命に頑張っているのがよくわかりました。
ですがその反面、私への態度は明らかに幼稚性が見えるようになったのです。
気に入らないことがあるとすぐに逆ギレ、不機嫌全開でグズグズと不平不満や愚痴を言ってくる。
かまってほしくてどうでもいいことを言ってきては困らせる。
アルコールが入ると特に酷くなり、とても手に負えません。
精神年齢が逆転したと感じました。
はたから見れば、育児に協力的な優しいパパ、まじめに働く良い旦那さん。
仲の良い幸せな家庭に見えていたと思います。
本当は、夫婦関係はガタガタで、私の心はグチャグチャで・・・
でもそれを誰にも言えませんでした。
隠したかったし、知られたくありませんでした。
子どもたちも成長し、学校へ通うようになると私も外で働くようになり、たくさんの人と接して刺激を受けつつも、
「誰も私の苦労なんかわからない」という孤立感が付きまといました。
仲良し家族、素敵な旦那さんアピールをし続けました。
そうしないと自分を保てなかったのです。
抜け出せないカサンドラの沼、ついに体も壊れてしまい・・・
現実は辛過ぎました。
朝、夫と子どもたちを送り出すと、仕事のない日は食事も摂らず、子どもが学校から帰ってくる直前まで眠っていました。
子どもたちに心配をかけまいと帰ってきたら「元気なお母さんモード」に切り替える。
そんな生活を送っていたのです。
夫が帰って来る時間が近づくと呼吸が乱れる。
私が身構えていることが夫に伝わり機嫌が悪くなる。
仕事のストレスもあってか私に当たり散らす。
わざとケンカになるよう仕向けられる。
黙っていると「無視か!俺がしゃべるのが気に入らんのか?」
「しゃべれや!何か言え!俺が嫌いなんだろう!」と言いたい放題。
「そうじゃないよ、子どもの前でケンカしたくないから」と言ったところで
「俺を怒らせたのはおまえや!おまえが悪い!」
「俺の機嫌をとれ!」
もう収拾がつかず大喧嘩。こんなことの繰り返し・・・
後で子どもたちには
「本当のお父さんはあんな人じゃないよ」と擁護するようなことを言ってしまう。
本当は大声で泣きたかった。
逃げたかったけど逃げられなかった。
子どもたちにも辛い思いをさせてしまいました。
私は20代半ばにメニエール病と診断されていて、この間、何度か激しい発作を起こしてしまい、めまいと嘔吐で意識を失い入院したことがあります。
その度に、病院の医師や看護師からは「ストレスをためないようにね」と言われますが、どうすればストレスをためないで生きていけるのか誰も教えてくれたことはありません。
「自分で何とかしないといけない」とますます自分を追い込んでしまうのでした。
悪夢の再来、夫の失業・・・もう離婚するしかない
夫に対する心は完全に凍りついたまま、何も期待することなくどうにかこうにか暮らしていました。
どんよりと重い空気が家庭内を漂う中、子猫を保護し、家族として迎え入れたことで希望の光が差し込んだように家の空気がガラリと変わりました。
家族みんなが集まり、子猫を囲んで笑いあうようになったのです。
少なくとも子どもたちとの関係は格段に良くなり、夫の笑顔も久しぶりに見ることができました。
初めて「明日が来るのが楽しみだ」と思える、心安らぐ日々でした。
そして、子どもたちも成長し社会人となりました。
ほっとしたのもつかの間、今度は夫が失業したのです。
幸い、新しい仕事は見つかりましたが、慣れない環境のストレスからか以前にも増して私に当たり散らすようになりました。
まさしく悪夢の再来でした。
また激しい言い争いをするようになってしまいました。
夫のその言動は私には理解できず、病的にも見えたのです。
ひとり悶々と考え込んでいるうちに、
ある日突然、
本当に突然、
得体の知れないものが上からドンっと落ちてきたのです。
不気味な感覚でした。
そこから拒食、不眠、不安、過呼吸などが頻繁に起こり、今まで考えたことがない方向に物事をぐるぐる考えてしまったりと、自分が自分でなくなったような感覚に襲われました。
怖くて、激痩せして、何もかもが限界でした。
もう離婚するしかない
そう真剣に考えるようになりました。
離婚届を前にして、初めてあふれてくる感情と涙
思えばこれまでも何度か実際に離婚届を前に押し問答したことがあります。
その時は勢いというか、相手の反応を見るためというか、ずるいやり方だった気がします。
だけど今度は真剣に、強い気持ちで離婚を切り出そうと決心しました。
「離婚したい」と口にすると、夫はパニックになり一気に感情が高ぶります。
想像していた通りの反応です。
いつもならここで負けじと私も同じように感情を高ぶらせ臨戦態勢に入るところですが、落ち着いて、深呼吸して、穏やかに、言葉を選んで、、、
そうすると、言葉よりも涙があふれてきて止まらなくなったのです。
「この感情は何?」
「これは何の涙?」
そこから先は言葉が出てこなくなってしまいました。
感情をひも解き、解放するということ
言葉に詰まり、涙を流す私を見て夫の感情も揺れ始めました。
ふたりで向きあってしばらくは泣くことしかできません。
お互い絞り出すように
「ごめん…ごめんな……」
これだけしか言葉になりませんでした。
この言葉こそがまさにお互いが一番伝えたかったこと。
そして、
「ほんとうは仲良くしたいねん…」
これが本当の気持ちだったことに気づきました。
きっかけは、何もかも限界だと感じてしまうまで自分を押し殺して生きてきたことですが、離婚するとかしないとかが問題なのではなく、これまで表に出してやることができなかったもつれた感情をひも解いて、解放してやることが何より大切なのだと気づかされました。
人の本当の感情はなかなか表にでてきません。
表にでてきている感情は、
人の弱さを隠すため、
自分を守るための鎧なのかもしれません。
時にはこの鎧が凶器となり、
周りを傷つけてしまうことがあるかもしれません。
でも、その鎧も傷つき、痛みを感じているものなのです。
自分をもっと知りたい、そして、伝えたい
驚きました。
今度こそ離婚しようと口火を切ったら隠れていた感情が解放されたということに。
自分に起こった変化をもっと知りたいという気持ちが強くわき、心理学やコミュニケーション法について、さらには、ヒーリングや脳科学についても学ぶようになりました。
この経験がなければ知り得なかった言葉とその意味、人が生まれ持つ気質と特性についてなど・・・
知れば知るほど私の体を貫通していく何かがそこにはありました。
ずっと夫からモラハラと言葉の暴力を受け、辛く弱い立場にあると思い込んで過ごしていました。
アダルトチルドレン、共依存、発達障害、カサンドラ症候群、HSPなどを正しく理解することで、これまでの生きづらさの原因がわかり、夫を変えようと必死になっていたことに気づいたのです。
30年以上もかかって、ようやく着地点となる心の置き場を見つけることができました。
原因がわかると、これまでの確執の中にも夫なりの変えることのできないどうしようもない感情・理由があったことが理解でき、自然と夫に優しくなれました。
私が変わることで、夫も感情的になることもなくなり、落ち着いています。
「なんかこの方が楽やわ」とまで言うようになりました。
自分とパートナーの気質や特性を知らず、共依存に陥りカサンドラ症候群になってしまった私ですが、現在は心理カウンセラーとして同じような悩みを抱える方のご相談にのっています。
つい、長くなってしまいました。
ですが、こうして自己開示をすることで同じように悩まれている方の道しるべになるかも知れないという思いがあり、私と夫の生い立ち、辛かった実体験について書き綴ってみました。
もちろん、私の人生には辛いことばかりではなく、楽しかったこともたくさんあり、ありがたい人との出会いもたくさんありました。
決して悲劇のヒロインだったわけではありません。
誰しも人生の中で良いこともあれば、悪いこともあると思います。
そして悪い事が起こった時にどう対処して、どう乗り越えていくのかがその後の人生に大きく影響するのだと思いました。
私は30年以上かかってしまいましたが、あなたが今、闇の中にいたとしても出口は必ず見つけられます。
一日でも早く暗闇から抜け出せるようお手伝いができたとしたら、今の私にとってこれほど幸せなことはありません。
一人でも多くの方が自分の心と向き合う機会を持ち、悩みの本質に気づき、幸せで安心できる未来が送れることを心から願っています。